幻のすいとん
戸田五七朗
(2011/11)

  古稀(70歳)の平均余命は男子14.69年、女子19.12年。ただしこの計算にはねたきりの人も入っているから、 健康で長生きする寿命となるとこれより10年も短くなる。 如何に健康で長生きするかが問題だ。これを実践しているおかみさんの店を1軒紹介しよう。

  渋谷センター街の一角に「蓼科(たてしな)」という小料理屋がある。看板には「お茶漬け・すいとん」と書いてあり、 すいとんの名前に惹かれて訪れる客も多い。 私もその一人である。数年前初めて扉を開けたとたん梯子のような階段が目に入り思わず「えっ」という感じ。これも名物の一つ。 階段を登ると2階はカウンター8席、ボックス1席のこぢんまりした小料理屋だった。

  おかみさんは昭和3年佐久生まれの83歳、センター街で40年以上営業を続けている。センター街で一番古い店ではないだろうか。 東海林さだおのエッセー「スイカの丸かじり」で「平成のすいとん」として紹介されている。メディアにもしばしば登場し、 若い頃通った著名な常連も多く、知る人ぞ知る店である。 バブルの頃は行列ができるほど繁盛したが今は静かに地道な商売を続けている。

  ところで看板のすいとんは偽りではないが実は今ではめったに食べられない。なにしろ注文があってから粉をねり、 だしをとるのだから手間がたいへん。といってあらかじめ仕込んでおくのはおかみさんの性分に合わないのだ。 今は人手がないのでめったに作らない。幻のすいとんと呼ばれている所以である。 私が初めてのときは運よく食べることができた。すいとんは醤油味だと思っていたが、ここのすいとんは味噌味で、 キャベツとタマネギとのバランスがよい。 すいとんは昔は貧しい代用食であったが今では懐かしいおふくろの味となった。だからすいとんの名に惹かれて訪れる客がいるのだ。

  この店でちょっとした出会いがあった。2年前(2009年)の4月15日、私が蓼科を訪れたとき、男女3人の学生に出会った。 自由が丘にある工業大学の建築科の3年生であった。 彼らもすいとんの名に惹かれて入ってきた。すいとんの名前だけは知っていたのだ。この日はおかみさんが気をきかせてすいとんをつ くってくれた。そしてすいとんを食べながら連中と意気投合し、1年後にまた会いましょうということになり、再会を約して別れた。

  それから1年、約束の(2010年)4月15日、この日は寒い日で体調が悪く出かける気分ではなかった。この1年間何の音沙汰もなかったのだから、 正直のところ彼らが約束を覚えているとは到底思えなかった。 しかしまさかということがある。自分から約束を破るわけにはいかない。そこで店に電話して万一彼らがきたら知らせてくれと頼んでおいた。 その後寝込んでしまい夜11時に目がさめた。 と、携帯がチカチカ点滅しているのに気づき店に電話してみると、何と彼らが現れたというのだ。急いで店にいき3人と再会を祝したのである。 普段から約束には固い方だが、この時ほど約束を守ってよかったと思ったことはなかった。彼らもまた同じ心境だったに違いない。

  それからまた1年、今年(2011年)の4月15日、2回目の再会を祝した。彼らはすでに社会人としてスタートを切っていた。 建築会社の現場監督をしている女性もいた。 あと何年つきあえるかわからないが、今後も彼らの成長を見守りたいと思う。とりあえず来年4月の再会を楽しみにしている。 ただし蓼科あっての話だから、おかみさんにはずっと健康で長生きしてもらいたい。(昭和29年大井第一小学校卒業生古稀記念誌から)

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